ログイン「ちょっとうまく巻けなくて、形がおかしいんですけど……食べてみてください」 千颯は初めて作る料理を波瑠に出すとき、いつも少し緊張をした。……気に入ってくれるだろうか。「形、全然変じゃないよ。嬉しい! いただきます!」 波瑠は手を合わせてから、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。 千颯は、波瑠が食事の前には必ず「いただきます」と手を合わせることに、いつもほっとした気持ちにさせられた。「……どうですか?」「かつおだしが効いていて、おいしいよ、ほんのり甘くて。おばあちゃんが作ってくれていたのとおんなじ! お弁当のだし巻き卵!」「レシピノート見ましたから」「見ても同じように作るのは難しいんだよ。ね、千颯くんも食べてみて」 波瑠に言われて、千颯はだし巻き卵を一切れ口に入れた。 口の中に、汁気を含んでじゅわっと広がる、優しい甘さ。それから、かつおぶしの味。 ……お母さんが作ってくれたのと、同じ味だ…… 小学生のとき、遠足のお弁当のときにいつも作ってくれた、あのだし巻き卵。 あの頃はただの卵焼きだと思っていた。お母さんが死んでから、何度か作ろうとしても決して同じ味のものは出来なかった。 波瑠さんのおばあさんのレシピノートのだし巻き卵を見たとき、もしかして、と思った。もしかして、お母さんが作ってくれた味に似ているかもしれないと。 ……ここまで同じだなんて。「千颯くん? どうしたの?」「え?」「……泣いてるから」 泣いている? 千颯は目元を拭った。……ほんとうだ、いつの間に?「ねえ、千颯くん。……泣きたいときには泣けばいいのよ。千颯くんが前に言ってくれたじゃない。千颯くんも泣けばいいのよ。ねえ、きっと、だし巻き卵が想い出を運んで来たんでしょう?」
高校二年生のとき、寝ていたら、夜中にふと気配を感じて千颯は目を覚ました。 目を開けると、薄暗い中に恵瑠がいて、ベッドで寝ている千颯を覗き込むようにして、しかも千颯の頬に触れていた。「……な! 何しているんですか⁉」 千颯は恵瑠の手を振り払い、半身を起こした。「寝ているかな、と思って確認しただけよ」 恵瑠はそう答えた。 しかし、千颯には眠っているところへ入って来た行動そのものが嫌悪すべきものだった。 千颯は夜眠るとき、ベッドを扉部分まで移動させて眠ることにした。これで簡単にドアは開かない。そうでもしないと眠りにつくことが出来ないことが情けなかった。 千颯は高校生になったころには、家では必要最低限しか話さなくなっていた。継母である恵瑠のことはむろん嫌いだったし、恵瑠そっくりな聖羅のことも嫌いだった。 でも、実は自分のことに無関心である父親が一番憎かったかもしれない。 千颯は早く、家を出て行きたかった。 それまでは気配を消してそこにいるしかなかった。 大学で県外に行けたらよかったけれど、財布を握っている父親が「通える範囲にいい大学がいくつもあるのにどうしてわざわざ県外に行くんだ? 県外に行くなら学費は出さない」と言ったので、あと四年、大学に行く間だけ家にいることにしたのである。 *** 今思えば、あそこで奨学金を借りてでも、県外に行き家を出ればよかったのかもしれない。 千颯は、お正月のテレビ番組をぼんやり見ながらそんなことを考えた。「にゃー」 するとキャンディがすり寄ってくる。 ふと見ると、波瑠はこたつに入ったまま、眠りこけていた。 波瑠さん、こたつで寝ると風邪を引いてしまいますよ―― そう起こそうとして、やめた。少しくらい大丈夫だろう。……とても幸せそうに眠っている。 千颯は波瑠の寝顔を見て、ほっとした気持ちになった。 ……これでよかったんだ。 自然にそう思えた。 もし、県外の大学に行っていたら、僕はこうして波瑠さんちにいることはなかった。 * ――あの後、大学受験も無事終わり、自宅から大学に通っていた。すると、今度は聖羅が千颯の部屋に来るようになったのだ。何かと理由をつけて。聖羅は千颯に一方的に何かを話す。千颯は出来るだけ早く出て行ってもらえるよう、穏やかに何かを短く言う。そうい
千颯にはもう一つ困ったことがあった。 それは、中学に入ってから、やたらと女子に告白されるようになったことだ。しかも、それまで名前も知らなかった子からも告白される。「千颯くん、好きです。つきあってください」「……僕、君のことよく知らないから」「つきあってから知ってください。彼女、いないんでしょう?」「いないけれど」「じゃあいいじゃない。かっこいいなって思って、ずっと見ていたのよ」 三年生の女生徒はそう言って、千颯の腕を掴んだ。 その瞬間、千颯はぞわりとして、その手を乱暴に振り払った。「きゃっ」「ご、ごめん。……つきあえません。ごめんなさい」 千颯は足早にその場を立ち去った。 同じようなことが何度も続き、千颯は疲れ果てた。「好き」というものが千颯にはまるで分からなかった。 恵瑠と同じような目をした彼女たちのことを、とても好意的には受けとめられなかったのだ。それにそもそも、千颯は自分のことでいっぱいいっぱいで、恋とか好きとか、そういうことを考えるゆとりは全くなかった。 友だちに相談しても「自慢?」とか「とりあえずつきあったら?」と言われるだけなので、相談も出来なくなっていった。 千颯は、余計なことを考えたくなくて勉強をし部活をし、そして塾に行ってまた勉強をした。告白されても丁寧に断り続けた。それが誠実な態度だと思っていたから。 すると、告白以上に困ったことが起きた。 物が度々なくなるのだ。 体操服とかリコーダーとか。 最初は千颯も自分で失くしたのかと思っていた。しかし、友だちに「お前のジャージ、持ってるって自慢しているやつがいるよ」とSNSを見せられた。 ……気持ち悪い。「先生に言ったら?」 さすがに友だちは心配してそう言ってくれたが、もう既にあらゆることが面倒だった。先生に言うと、親に連絡が行くだろう。親って、もしかして恵瑠さんにも? 恵瑠の顔を思い浮かべると、そ
またお風呂を覗かれた。 ――気持ち悪い。 千颯は用心して浴槽から出ると、脱衣所の鍵を確認してから、バスタオルで身体を拭き、着替えを身につけた。 継母がお風呂を覗く。 最初は偶然だと思っていた。 でも、あるときわざとだと気づいた。……あの、目。……気持ち悪くてたまらない。 誰にも相談出来なかった。「わざとじゃない」と言われてしまえばそれでおしまいの話だし、そもそも、覗き自体を信じてもらえない可能性も高い。一番の味方であるはずの父には絶対に相談出来ない。何しろ父が選んだ人なのだ。 でも、小六で母が急な事故で死んで、中一で再婚したいと言われたとき、千颯は父親の神経を疑った。お母さんが死んで、まだ一年も経っていないのに? しかし、父は一人では生活が出来ない人で、ある意味必要にかられて再婚したのだ。いくら千颯が「家のことは僕がやるよ」と言っても、本気にされなかった。また、父が望むように家のことを全てする技術を六年生の千颯はまだ持っていなかった。 母親がいなくなって、千颯の生活は根底から変わってしまった。 死後数ヶ月は、母のいない生活をなんとか二人でやって行こうとしていたので、大変ではあったけれど、無我夢中で前向きな気持ちでいられた。父と二人で悲しみを乗り越えていこうとする感じは嫌ではなかった。しかし次第に父は家のことには興味を失い(もともと家事が出来ない人だった)、そこからほどなくて「再婚する」と宣言したのだ。「新しいお母さんと妹だよ」 父に紹介されたその人たちを、千颯は初めから好きになれなかった。「よろしくね、千颯くん。とてもかっこいいのね。あたしは恵瑠と言います。お母さま亡くなって一年も経っていないし、あたしと千颯くんは十八しか違わないから、お母さんって呼ばずに、恵瑠さんって呼んでくれたらいいわ」 差し出されたその手を掴む気になれなかったけれど、仕方がないので手を掴み握手をした。長い付け爪はきれいというより、魔女のように千颯には感じられた。手は肉厚で、なぜだかとても気持ちが悪いと思った。 それは
千颯のいる部屋と波瑠の寝室の間の部屋は、最初波瑠の居住スペースだった。 しかし、千颯と一緒に住むようになり、そこを共有の居間として使うようになっていた。 つまり、こたつがありテレビがあり、二人でまったりする空間なのである。食事は台所の食卓でとっていたけれど、お節は居間でのんびり食べましょうということになり、二人はこたつに入りながら映画を観つつお節を食べていた。「波瑠さん、お休みいつまでですか?」 「五日までなの。六日から仕事なんて、悲しいわ。千颯くん、大学はもっとお休みでしょう?」 「授業は六日からですよ。でも、その後、入試の関係で休みの日があります」 「いいなあ。まだ一年生だから、気楽でいい時期よね」 「そうですね、就職活動もまだですし」 「あ! 映画終わっちゃった。次、何観る?」 「波瑠さん、お出かけしなくていいんですか?」 「うん! おうちがいい。こうして、千颯くんと一緒に、こたつに入ってお節を食べたり映画を観たりしながら、まったりしているの、幸せ」 波瑠はそう言って、お重から黒豆をとって自分のお皿に乗せた。 むろん取り箸を使っているけれど、千颯は、ほんとうは、こうして一つの入れ物から食べ物をシェアするのもあまり得意じゃないはずだ、と波瑠は思っていた。だけど、千颯は自分からお節作りましょうと言ってくれた。そのことで波瑠は安堵するような気持ちで満たされていた。「あ、僕これ観ていいですか?」 千颯がリモコンに手を伸ばし、映画をスタートさせた。それは何年か前に流行ったアニメ映画で、波瑠も好きなものだった。 「私、これ好きだよ」 「僕も好きなんです。久しぶりに観てみたくて」 そのとき、こたつの中にいたキャンディがもぞもぞとこたつから出て来た。そして、その拍子に波瑠も千颯も少し動き、互いの足が触れ合った。 「ごめんなさい!」 「いや、僕のほうこそすみません」 波瑠は、少し赤くなった千颯の顔を見ていたら、もしかして一緒にこたつに入れること自体も、特別なことなのかもしれないと思い、また嬉しさが込み上げてきた。 キャンディはこたつから出ると、千颯と波瑠にすり寄り、二人の間に丸まって眠った。 幸せだなあ、と波瑠は思う。 ここ数年の間で、これほど安心して寛げた日々があっただろうかと。 毎
「ねえねえ、千颯くん。私、初日の出を見に行くの、初めてかも」 「そうなんですか?」 「うん、千颯くんは?」 「僕は、母が生きていた小学生のころ、家族で毎年見に行っていました。……波瑠さんと大掃除したりお節作ったりしていたら、そのことが懐かしく思い出されて。見に行きたくなったんです、急に」 「私は初めてだから、すごくわくわくしてる!」 「とてもきれいですよ。海の向こうの山から太陽が昇るんです。山の際から空がだんだん赤くなっていくんですよ」 波瑠と千颯は電車から降りて、大桟橋を歩きながら話をした。 真冬の夜明け前だから、寒い。寒いけれど、気持ちは晴れやかで高揚していた。波瑠も、そして千颯も。 そう言えば、一緒に暮らしているけれど、こういうお出かけは初めてだわ、ということに波瑠はふと気づいた。そして、気づいたら突然恥ずかしくなり、なんとなく下を向いた。「波瑠さん、あの辺で見ませんか?」 千颯の声で、波瑠は顔を上げた。千颯が指さしたところは、多くの人が行き交う中で、まだ人が立ち並んでいない場所だった。 「あ、うん」 欄干のすぐ際まで行き、そして千颯とはほんの数センチ離れて並んで立つ。 波瑠は、自分たちは一体どういう関係に見られているんだろう? ということが気にかかった。 吐く息が白い。 波瑠はどうしようもなく胸がどきどきして、口を手で覆った。 「……手、冷たいですか?」 「少し」 「手袋して来ればよかったですね」 「うん。でも、大丈夫だよ」 波瑠はにっこり笑って見せた。千颯に至近距離で覗き込まれて顔が赤くなっていないか不安になったので、変な顔で笑っていませんように、と願った。 夜は次第に明けて行く。 空は、海の向こうの山の際の辺りから赤く染まり始め、次第に、橙色が薄青い空に滲むように広がっていく。群青色の空は上の方に残り、白い星を残していた。 しかし、群青色の空もどんどん薄青くなり星を一つ一つ消していく。 ――空が白んでいく。「波瑠さん、後ろを見てください。富士山がきれいです」 千颯に言われて振り返ると、先ほどまで夜の藍色に沈んでいた富士山がくっきりと姿を現していた。 空は青みがかったピンク色で、富士山は頂の白い雪を見せながら、
「波瑠さん、年末は一緒にお節作りませんか? レシピノートにあったんです。お節メニューが」「作る!」「その前に大掃除も一緒にしましょう」「いいの?」「もちろんです」 そんなわけで、波瑠と千颯は、年末、大掃除とお節作りをすることになった。 いつもはなかなか掃除出来ないところを掃除する。窓ガラスを拭いたり、縁側の水拭きをしたり。いつもは使っていない部屋の掃除もする。ついでに波瑠は不要なものをまとめてゴミに出すことにした。「千颯くん、そう言えば、家具は要らない?」「要りません
波瑠が千颯を拾ったのが、十一月初旬。 季節は巡って、もうクリスマスシーズンになっていた。 千颯との生活も一ヶ月を過ぎ、二か月目に入っている。 波瑠は毎日が快適だった。 「波瑠さん、ごはんですよ」と起こされ、帰宅すれば「おかえりなさい。ごはん、出来ていますよ」と迎えられる。 天国! まさに天国だわ!「何が天国なの?」 瑛万が言う。 「あ、ごめん、何でもないの、瑛万」 うっかり心の声が漏れちゃったんだわ。気をつけないと。
高校生になったとき、祖母に病が見つかった。 それはすぐにどうかなるものではなかったが、ゆっくりと着実に祖母の身体を蝕むものであった。 祖母は体力が落ちて行った。そして、出来なくなることが増えて行った。 そこで波瑠は、まず自分のお弁当は自分で作ることにした。祖母の分のお弁当も作って、食べてもらうようにした。「ごめんね、波瑠」「謝らないで、おばあちゃん。それより、元気になってね」 波瑠は、掃除をし洗濯もした。 祖母は、朝ごはんと晩ごはんはかろうじて作ってくれていたが、それもつらそうだった。
思えば、波瑠は物心ついたころから母親に嫌われていた。 理由は分からない。 或いは理由なんてないのかもしれない。 もしかして、「嫌われている」というのは気のせいかもしれない。 だけど、波瑠が幼いころ、共働きの両親に代わって面倒をみてくれたのは祖母だったし、波瑠が私立中学への進学が決まったとき、祖母の家からの方が学校に近いからと、家を出されたのも事実だった。 波瑠にとって不思議だったのは、母親は実の母親である点だった。 幼いころ、母親は自分のお母さんではないから、いつか本当の優しいお母さんが迎えに来てくれると夢想していたこともあった。でも、事実はシンプルかつ残酷